追い込み漁の本、出しました!
大浦佳代寄稿
通信554号(2025年6月)での決意表明のとおり、昨年11月に『沖縄 最後の追い込み漁—宮古島狩俣集落・友利組』という本を出しました。版元探しに苦労し、350冊買い取り+1千部まで印税ゼロという自費出版に近いものです。しかし今は、ともかく「本を出すこと」が重要だったと実感しています。
わたしが宮古島で素潜りの「追い込み漁」に出会ったのは、20年前のこと。初めて体験した漁は、衝撃的でした。人が泳いで魚を追い込む漁法は、本能を刺激する「海の狩り」です。しかも魚と同じ海を泳ぐことで「魚の命も自分の命も同じだ」と実感させられるものでした。すっかり魅了されて宮古島に通ううち、伝統漁法の追い込み漁はどんどん姿を消し、気づけばこの組が沖縄で最後の組に。組を率いる哲雄親方は現役ですが、5月で88歳になります。体内のリズムを潮汐に同調させ、海の生態系に溶け込むように生きてきた人びとの記録を残さねば――。20年もの間、漁師さんと海に潜り、お話を聞いてきた自分にしかできない仕事ではないか。そんな思いに突き動かされ、1年かけて書き上げたのがこの本です。
思いがけず世間の評価は上々。日経新聞の文化面などに取り上げられ、那覇のジュンク堂書店には特設コーナーが。来月には同店でのトークショーも決まりました(3月14日(土)15時から。入場無料)。何より、親方が「この本で得をしたのは、地元の若い漁師連中だよ」と、伝承の価値を認めてくださったのが最大の喜びです。
今回、漁労民俗研究の第一人者、川島秀一さんが書評を書いてくださいました。川島さんは、地平線会議にゆかりのある故・森本孝さんと親交があり、一緒に漁村の旅もされています。わたしはご著書に感銘を受け、2010年、気仙沼市のリアス・アーク美術館の副館長だった川島さんをお訪ねして以来のご縁。その後、東北大学の教授になられ、退官後は何と福島の新地町で刺し網漁の乗組員に。漁の手伝いをしながら、研究を続けておいでです。その体験から生まれた『春を待つ海-福島の震災前後の漁業民俗』(冨山房インターナショナル、2021年)は、どの頁からも潮と生活の匂いが立ち昇り、政策など机上の論理と浜の実際との乖離を浮き彫りにする傑作です。
『沖縄 最後の追い込み漁』は350冊買い取ったので、個人販売サイトをつくりました。江本さんの「本の買い方も書いて」とのお言葉に甘えてご紹介します。https://umi-to-ryo.bibliojp.com からお入りください。市販より少し安い2,600円(税・送料込)での販売です。[大浦佳代]

WEBサイト
海面を仰ぐ漁師たち──追い込み漁の操業空間
川島秀一さん寄稿
今から、ちょうど20年前頃から、私は列島の「追い込み漁」の系譜をたどる目的で、各地を飛び回っていた。それは、追い込み漁が〈伝統的〉であるとか〈原始的〉であるからというような通俗な理由ではなく、むしろ現代において急激に失いつつある、自然に対する人間の関わりかたを、私を含め再認識したいがためであった。
2007年の元旦は、沖縄県の久高島にいた。この日は旧暦の11月13日で、島ではアミドゥシと呼ばれる、四歳の男子から長老までが参加する男性中心の儀礼が行われようとしていた。このような儀礼で食べられる料理の魚は、必ず追い込み漁で確保される。8人の漁師がサバニという小舟に乗り、私も同行してみた。
1人が黄色いロープを体に結んで海に跳び込んだ。海底を広くロープで回しながら魚を追い込むわけだが、次々に他の漁師も海に跳び込み、気がついたら、私1人が揺れるサバニの上にいた。心細いこともあったが、いったい今、海の中でどのような操業が行われているのか、見たい一心だけで、コベリにすがりついて、海底をのぞいていた記憶がある。
ところが最近、その追い込み漁の海底の操業の様子を見事なまでに活写した、すばらしい書が出版された。「海と漁の体験研究所」代表の大浦佳代さんによる『沖縄 最後の追い込み漁—宮古島狩俣集落・友利組』(南方新社、2025年)である。本書は、主に友利組の親方である友利哲雄さん(昭和13年生まれ)からの「聞き書き」調査で構成されているが、それだけではない。彼女自身がスキンダイビング・インストラクターの資格を持つダイバーであり、この狩俣の、素潜りを特徴とする追い込み漁に加わり、漁の手伝いをしながら、自分の身体でその実態を把握していった。
本書の第四章「追い込み漁の身体性」は、これまで誰にも描くことのできなかった追い込み漁の本質的な領域である。しかも研究者がよく言葉にする「参与観察」などという甘っちょろいものではなく、自分の身体を使って漁の仕事をしながら感得した文章の集成である。視覚と聴覚と机上の作業だけでは、「客観性」などは得られないものだからである。
しかし、同時に著者は「第二章 哲雄親方七十年の漁師人生」で、親方のライフヒストリーを扱いながらも、その背景にある沖縄の追い込み漁の歴史を的確におさえている。続く「第三章 追い込み漁の魚たち」の中でも、魚類の生物学知識もおろそかにしていない。
ところで、その「身体感覚」についてだが、私は以前から、生物としての人間が船上で生活する以上、その食事や排泄の問題、あるいはカツオ一本釣り船などの長期出漁中の性の問題などを気にしていた。著者は排泄に関して素潜り漁師の次のような言葉を載せている。「海の中にはトイレがないから、そのまま海の中にやっているさ。もちろん大きいほうもさ。スズメダイなんかは食べているよ。それをまた人間が食うんだから」。
しかも著者もまた同じ経験について次のように述べている。「サンゴの上を潮に流されていく広がりに小魚が群がって、夢中でついばんでいる。体の奥から笑いがこみあげてきた。わたしは海を汚したのではなかった、受け入れられたのだ。自然の循環の大きな輪が、ほんの一瞬開いてわたしを入れ、両手をつないでくれたような気がした」。稀なる体験とその感性に脱帽である。自分から切り離された自然を賛美するのは簡単だが、自身を含めた自然を感得する力は、漁師そのものの感性である。
哲雄親方も魚類だけでなく、身近な自然である藻類も、さまざまな薬効を求めて自身で試している。著者はそのような親方に対して「自然の力に体が敏感に反応し、命の源にできる能力もまたすごい。わが身に引き比べると、生き物としての格が数段も違うように思う」と記している。この「生き物としての格」こそが、私の漁労研究の一つの目標であった。
しかし、列島の追い込み漁は、本書によると、衰退の一途をたどっている。狩俣の追い込み漁は、素潜りで、遠浅の海域で行われるチナカケヤーである。一方で、同じ宮古諸島の伊良部島の佐良浜で行われてきたのは、潜水器を用いて、より深海で操業するアギヤーである。しかし、こちらは現在、カツオ一本釣りの生餌の小魚捕りに終始している。いずれ、列島の追い込み漁は、細々と、臨時に操業されるイベントになるであろう。
しかし、最後まで見届けることで、そこにこそ追い込み漁の本質的なことを見出すこともできるであろう。海面を仰ぐ海底を操業現場とする追い込み漁師の思いを記録することは、一度その漁法に関わってしまった者たちの責任と思われる。[川島秀一]

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